二十年ぐらい前。
渋谷の宮益坂に「小川はかり店」という店があり、私は勝手に「猫沢不動産」と呼んでいた。
筆書きの古めかしい看板を掲げたまま、年がら年中シャッターが閉まっている。時々、灯りがついていたような、いないような。
「小川はかり店」は、渋谷の音と光と人のどれにも馴染んでいなくて、私はそういうところが好きだった。勝手に「猫沢不動産」と名付けてからは、さらに好きになった。
店の前を通るたびに、みゃあ、という猫の鳴き声が聞こえた。頭の中で。
やがて、猫沢さんの姿も見かけるようになった。頭の中で。
猫がいました。猫は部屋から一歩も外へ出たことがありませんでした。猫沢さんという、黒いベレー帽をかぶった不動産屋と暮らしていました。
ある日、外へ出ようと障子へ爪を立てると
みゃあ
うしろで自分の鳴き声がするではありませんか。驚いた猫が振り向くと、猫沢さんが、じっとこちらをみつめながら、猫のえさを食らっていました。
久しぶりに行ってみたらビルになっていた。「小川はかり店」だけじゃなくて、猫沢不動産も、猫も、猫沢さんもなくなっていた。なにもかもが障子を開けて外へ出て行ったのかもしれない。
確か、このあたりにあったのだけど。